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説明になっていないのは正解を求めていないから

「説明になっていない」という言葉を見聞きするようになって数年になる。一昔前であれば「説明する」等の言葉が巷に溢れることはなかったように筆者は思う。どのようなことが影響して「説明する」ということに重きを置かれ始めたのだろうか。そもそもなぜ「説明する」ことが重要視されるようになったのだろうか。「説明しない」ということを選択した場合どのような結果になるのだろうか。説明して得られる結果と説明せずに得られる結果を”天秤に掛ける”としたならば人というのはどちらを選択するのだろうか。「三方よし」という言葉がある。自分にも良くて、他人にも良くて、周りにも良いという近江商人の心得と云われているものだ。この言葉を借りて上記で述べた「説明する」または「説明しない」という各々の行為から得られる結果を簡単にだが想像してみる。周りは説明した内容に納得できたのでよし、相手も説明した内容に納得したのでよし、自分も説明できたことでよし、ということになると想像することができる。では逆に「説明しない」場合を想像してみる。周りは説明されていないことに憤っている、相手も説明がなされていないので納得していない、自分も説明しないことで…。ここに人間の不思議な側面がある。立場や役割によっては時に「説明しない」ことも必要になる。または「説明しない」ことで得られる結果等が大きいということもある。また時には「こちらの気持ちを汲んでくれ!」という場合においても「説明しない」ということを選択する場合もある。「説明しない」ということの重要なポイントは善意でやっていることなのか悪意でやっていることなのかということだと筆者は考える。

人が「説明」を求めている時というのはどういう時なのだろうか。もしかすると「正解」を求めている可能性があると筆者は考える。または「正解」に近いことを求めていると考えることもできる。例えば、白黒ハッキリ決められない時は往々にしてあるがそのような時というのは「妥当である」という「正解」を求めようとするのではないだろうか。「三方よし」として「妥当である」という”落とし所”を探る為に「説明」を求めるということが至るところで行われていると筆者は考える。また、一般的に云われている「物事には正解は無い」という考え方に立脚するならば「妥当である」ということの方が「正解」を求めているよりも大きいのではないだろうか。だからこそ「説明」を求める気持ちというのがここ数年盛り上がりをみせているのだろうと筆者は推測している。では逆に「説明」を求めていない時というのはどういう時なのだろうか。もしかすると考え方によればここ数年では「説明」を求めていないという状況等は一切無いということになっているのだろうか。否、上記のことを踏まえて一歩深く考えるとするなら「妥当である」ということが是である以上「説明」は必ず求めるものであるという意識を持った人が増えたのだろうか。そのように考えた場合、「説明しない」ということはネガティブな印象を誰しも持つ可能性が高い。それでは「三方よし」という結果も得ることはできない。「三方よし」という結果を求めていないのかもしれない。なぜなのかはわからないが。「いやいや、三方よしなんて理想論だって」という人もいることだろう。しかし、物事にとって最良の結果を得ようとするのであれば「妥当である」という関所を抑えた方が有利にことを運ぶことができるのではないだろうか。そもそもな話を考える。「説明する」ことで「妥当である」結果を得る。「説明しない」ことで…。ここに重要なポイントがありそうだ。「妥当である」結果を得ないということは「正解」を求めていないということになるのだろうか。「三方よしは理想論。自分も、相手も、みんなも納得できる正解等は無い」と考える人もいることだろう。では「正解」は誰が決めるのだろうか。

「なんで?」と聞いて「なんでもや!」と言われて育った身としては「説明する」と「説明しない」ということの差みたいな正体を掴んでいる。上記で挙げたように「正解」を求めている側は質問する。しかし「正解」を求めていない、または「正解」を決めるのは自分だと考えている人間にとっては「正解」を求めていないのだ。「説明しない」というのを「説明できない」または「説明することは面倒である」と考えている人間にも当てはまると筆者は考える。例えばだが「お前に説明する”義理”はない」と考えている人間というのは「正解は俺/私だ!」と考えているので言い替えるなら「俺/私の言うことを聞け」ということなのだろうと容易に想像がつく。立ち止まって考えてみると「三方よし」ではなく「一方よし」のような考えを持っている人が多かれ少なかれいるということと解釈しておくことで精神的なストレスは多少は軽減されるはずだ。「いや〜、そういう人がいるってわかっててもしんどいよ」と思う人もいて当然だと思う。そりゃそうだ。「妥当である」という選択肢すら消してまで「一方良し」を押し通そうとしているのだから。このように「押し通そう」としている人に対する”対応策”を考えてみることを検討してみてほしい。難しい話ではないと筆者は考える。上記で述べたように筆者の幼少期の経験を踏まえるとするならば「なんで?」と聞いて「なんでもや!」または「そういうもんや!」という返答しか得られなかった場合の結果は「既に決まっている」ということが既にわかっている。このように考えるならば「既に決まっている」ことを見抜くということに焦点をあてることができるのではないだろうか。経験が無ければなかなか「既に決まっている」ことを見抜くことはできないかもしれないが、数をこなすことで見抜くことができる。見抜くことができたならば「既に決まっている」ことを少しだけでも変えることはできるのではないだろうか。「どんな幼少期をおくってきたんだ?」とこの記事を読んだ人は思うかもしれないがまぁそれはそれとして。「説明になっていないのは正解を求めていないから」の正体は「既に決まっている」ということであるとイコールであると知っておいてほしいと提案したい。

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