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意図が無い人は自分の機嫌を自分でとることができない

意図を定めずに行動する、意図を定めずに実践すると「自分は何をやっているのだろうか」という壁にぶち当たることは行動する前や実践する前にわかっていることなのだが案外知られていないことだ。「意図なんて決めずにさっさとやれ」という人がいた場合に考えるられることは往々にして上記に挙げた「自分は何をやっているのだろうか」と考えずに「あいつ使えねぇ奴だな」と周りに文句を言い始めることは目に見えている。なぜ意図を定めないだけでこのような現象が生まれるのかと端的にいうならば「意図が無い人は自分の機嫌を自分でとることができない」からだ。意図を定めずに行動や実践をするとイライラしたりする傾向にあるのかというと「思ってたのと違う」結果が現れ始めるからだ。自分はこう思っていた、しかし、いま目の前にある現象は一体なんだ?とアニメや漫画でヒールモブキャラが言いそうなことを体感しないといけない状況に陥ってしまう。「じゃ、意図を定めていれば、意図を決めていれば、イライラすることは起きないとでも断定するのですか?!」等を言いたくもなるだろう。”子ども”みたいなことを言いたければ言っていればいいとだけ言っておきたい。意図を定めたところで、意図を決めたところで、そりゃイライラすることも想定外のことも起こりうるだろう。「考えたらわかるやろ!」と100万回い世界転生するくらい言われ育った身としてはそう言いたくもなる。意図を定めない、意図を決めない、意図が無い人がどれほどの状況を想定しているのだろうか?と筆者は思うのだ。想定していない状況が自分のなかで足りないから、予想外のことが起こるとすぐにイライラしたりする。イライラすると機嫌をとってほしいと”子ども”のような振る舞いをする。端的にいうならばこのような図式だ。だから筆者は「意図が無い人は自分の機嫌を自分でとることができない」と経験則からそのように思っている。

意図を定めない、意図を決めない人の特徴等がなんとなくつかめれば対応策もとりやすくなるだろう。簡単な話である。「見切り発車」系なのだ。「考えたらわかるやろ!」と言われ育った身として「見切り発車」系の人は羨ましくもある。とりあえず行動する、とりあえず実践する、という「取り掛かりの早さ」があるからだ。筆者自身はある程度のこと、予想されることが満ちるまで行動したり実践したりすることが無いからだ。「とりあえず行動する」「とりあえず実践する」または「動きながら考える」「考えながら動く」ということが”推奨される世の中”では「行動が遅いやっちゃなぁ」というレッテルを貼られることは目に見えている。まぁ、そのようなレッテルを貼られることも予想しているのだからこっちとしてはイライラするようなことは無いのだが。どれだけ想定しているのか?ということに対してどのように考えるのかは個々人異なる。当たり前なことを敢えて書いた理由は、ポジティブ思考とネガティブ思考に終止する可能性があるからだ。考えられる、予想される状況等をどれだけ想定できるか。なかには例外が発生することもあるはずだ。しかしもし、例外が発生することを非とした前提で「見切り発車」していた場合はどうだろうか。そのような人がいたらどうなるだろうか。例外が発生したことを咎めるのだろうか。または、例外が発生しないように”仕組み”を変更するのだろうか。このような人が定めていた当初の意図とはどのようなものなのだろうか。「意図が無い人は自分の機嫌を自分でとることができない」と筆者が考えるもう1つの理由がある。自分が決めた意図を説明することができるのか?ということだ。説明と言っても”取扱説明書”のような一方的なものではない。相手が納得することができる説明ができるかどうかということだ。「相手が納得しないといけない理由はどこにある?」「”部下”が納得しようがしまいが関係ないやろ。”俺”/”私”が決めたこと、言うたことをチャチャッとやったらええねん。それだけや!」と説明することを拒否するような態度、または、説明すること自体が面倒と考えている人にとっては意図を定めることや意図を決めること自体が無駄なことと考えているのだろうと推測することができる。

意図が無い人は自分の機嫌を自分でとることができないと筆者がそう考える最大の理由は「で、最終どうなりたいの?」と聞きたくなるからだ。想定外の出来事が起きてイライラしたり自分の機嫌を誰かにとってほしいというアピールをし始めるのは鬱陶しいがまぁいいとまだ思える。しかし、「で、(そんな態度とってさ)最終どうなりたいん?」と言いたくなるのだがいかがだろうか。「いかがだろうかって言われても知らんがなこっちは。」と言いたくなるかもしれないが、意図が無い人には「最終的にどうなりたいのか」ということが無いのが最大の特徴だと筆者は経験からそう思うように至った。意図が無い人には最終的にどうなりたいのか?ということが無いと筆者が断定する理由は、例えばだが、意図が無いプレゼンテーションを見させられているような感じを受けるからだ。一般的に行われているプレゼンテーションとは意図を明確に定められていると考えられる。意図が明確ではないプレゼンテーションに意味があるのだろうか。即ち、明確な意図があるだけでもそれを見ている人が本当に理解しなくとも、なんとなくでも理解できるものではないだろうか。それだけ意図を定めるということは重要なのではないだろうか。つまり、最終的な結果というのは意図をどれだけ明確にしていたのか?ということとイコールとも考えられないだろうか。もちろん多少なりとも想定していた結果とは異なるかもしれないが、意図が無い場合とを比較したなら満足できる結果を得られる可能性があると考えられる。それだけ意図を定めることの重要性と意図が無いことの無意味さには差があると考えることができる。自分の機嫌を自分でとることができない人というのは意図が無い人と知っているだけでも他人の機嫌をとる必要がなくなり自分の機嫌を自分でとりやすくなると筆者は提案したい。「自分は今後どうなりたいのか?」ということを真剣に考え、自分の機嫌を自分でとるという心構えで日々の生活をおくっている人間が、自分の機嫌を自分でとることができない人間に合わせる必要がどこにあろうか。また、意図を定めている人間が、意図を定めていない人間に合わせる必要があるのだろうか。もし、他人の機嫌をとっている人で悩みが尽きない人は1度立ち止まって考えてみることを検討してみて欲しい。

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